旧祝祭日。

四方拝(しほうはい)。 一月一日。

元旦の宮廷行事で、天皇が元日の早朝、天地・四方を拝する儀式です。

元日の寅の刻(午前四時)綾綺殿(更衣所)で黄櫨染の袍(黄櫨染は赤みがかった黄色に染めるもので、天皇の第一の正装をいう)を著して、清涼殿の東庭に出御し、属星(その人の運命を左右するといわれる星)、天地四方、父母の山陵を拝されます。

その年の天災を祓い、五穀豊穣と宝昨長久・天下泰平を祈願する朝儀だったそうです。

四方拝の起源は中国に発するといわれ、日本では平安時代初期に宮中で取り入れられ、平安時代には宮中にならって貴族や一般庶民の間でも広く行われ、元日の朝、四方を拝して五穀豊穣と無事息災を祈ったといわれますが、時代が降るにつれて宮中だけの儀式となりました。

明治以降は、皇居内の神嘉殿の南庭で、伊勢皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)の二宮に向かって拝礼されたあと、東西南北に向かって四方の諸神を拝されるように改められたそうです。

元始祭(げんしさい)。 一月三日

毎年正月三日、天皇が宮中の賢所・皇霊殿・神殿の三殿において親祭し、皇位の元始を寿(ことほ)ぐ儀式です。

明治になって定められた皇室祭祀の一つで、戦後、国民の祝日からは外されたが、宮中では従来どおり現在も行われているそうです。

元始祭は明治三年一月三日、神砥官八神殿に八神、天神地砥、歴代の皇霊を鎮祭したのに始まり、明治六年一月三日から、現在の三殿親祭となりました。

皇室祭祀のなかでも重儀と位置づけられており、明治四十一年制定の「皇室祭祀令」において大祭に加えられ、昭和二年の公布で「祭日および祝日」に定められました。

新年宴会(しんねんえんかい)。一月五日。

戦前、正月五日に宮中で新年の祝賀として皇族・親任官・外国の大使公使などを招いて盛大に行われた儀式です。

新年宴会は、奈良時代より朝廷を中心に行われていた元日の節会に由来していますが、室町時代未頃、応仁の乱などのため、皇室の衰微とともに中断、明治になって再興されました。

宮中では元日に多くの行事が重なるため、明治五年から招待宴を一月五日に移して、新たに新年宴会とし、明治二十二年の宮城完成後は、主に豊明殿で行われた。

事変勃発などでたびたび中止されています。

紀元節(きげんせつ)。二月十一日。

「日本書紀』で神武天皇即位の日とする一月一日を、太陽暦に換算した二月十一日を祝日と定めたことに由来しています。

明治五年十二月に制定。戦後、日本国憲法の精神にそぐわないものとして廃止されました。

昭和四十一年より、「建国記念の日」として国民の祝日となっています。

「紀元」とは、歴史上の年数を数えるときの基準となる最初の年をいいます。

日本では、明治五年十一月十五日、神武天皇即位の年(西暦前六六〇年)を元年と定め、皇紀と呼びましたが、現在は閏年の算定以外には用いられていません。

春季皇霊祭。 春分の日。

毎年、春分の日に宮中の皇霊殿で行われる皇室の大祭で、天皇自ら歴代の天皇・皇后・皇族など皇祖の神霊を祀る儀式です。

皇室による先祖を祀る祭儀は、古い記録では『古事記』『日本書紀』などに、皇祖の御霊を祀った例がみられる。平安時代中期以降は、京都御所の清涼殿内の、御仏壇のある御黒戸の間で、仏式で執り行われるのが通例でした。

しかし、明治元年の神仏分離の政策により、神式による祭儀に変更された。

初めは、神砥官によって崩御日にあたる御正辰祭が行われていたが、明治十一年からは天皇の親祭による春季皇霊祭(秋は秋季皇霊祭)となりました。

またこの日、皇霊殿前庭では、宮内庁職員により東遊(東舞)の儀が執り行われています。

神武天皇祭。四月三日。

毎年、神武天皇崩御の日とされる四月三日、皇霊殿で行われた儀式で、神武祭とも言います。

「古事記」や「日本書紀」に説明される事蹟によれば、九州日向国(現宮崎県)から東征し、瀬戸内海を通って難波(現大阪市)に上陸し、熊野から吉野を経て大和を平定し、大和の橿原宮において西暦紀元前六百六十年二月十一日に即位したとされています。

天長節。

昭和二十三年「国民の祝日」制定以前の天皇誕生日(昭和天皇)の呼び方でした。

天長節は、奈良時代、光仁天皇の宝亀六年(七七五)九月の詔勅によって初めて行われ、その後中断していましたが明治元年になって再興されました。

明治天皇の誕生日は九月二十二日(旧暦)でしたが、太陽暦採用後の明治六年(一八七三)以降は十一月三日に変更になりました。

大正天皇の誕生日は八月三十一日、昭和天皇の誕生日は四月二十九日であした。

なお天長節に対し、皇后の誕生日を地久節として祝っていましたが、現在は廃止されています。

秋季皇霊祭。秋分の日。

毎年、秋分の日に宮中の皇宝殿で行われる皇室の大祭で、天皇自ら歴代の天皇・皇后・皇族など皇祖の神霊を祀る儀式でした。

神嘗祭(かんなめさい)。十月十七日。

皇室の大祭で、その年に収穫した新しい米で造った神酒と神饌とを伊勢神宮に奉る儀式で、十月十七日に行われます。

古くは、陰暦九月十一日に勅使に神酒と神餅とを授け、十七日に供え奉っていましたが、明治十二年以後、十月十七日に執り行われるようになったそうです。

戦後、祝祭日は廃止となり、現在は、宮中と伊勢神宮だけで儀式が執り行われています。

神嘗祭の「なめ」は、新嘗の「なめ」と同じで、「かみのあえ=神の饗」が変化した語、また「なめ」は新穀を意味する「贅(にえ)」の変化であるとする説もあります。

新嘗祭(にいなめさい)。十一月二十三日。

「しんじょうさい」とも言います。

十一月二十三日、天皇が新穀を天神地砥に勧めて神を祀り、また自らも新穀を食して、その年の収穫を感謝する儀式です。

伊勢神宮の新嘗祭では勅使が遣わされ、大御餞(おおみけ=神・天皇が召し上がる食事)を供え奉ります。

飛鳥時代、皇極天皇の時(六四二〜六四五)から行われたと伝えられています。

古い皇室の大祭で、一時衰え中断しましたが元禄時代になって、東山天皇の時(一六八七〜一七〇九)復活しました。

明治五年の改暦以前は、十一月の第二の卯の日に行われていました。農業を中心とした時代のなかにおいて、最も重要な儀式とされた。

明治節。十一月三日。

明治天皇の誕生日にあたる十一月三日を記念する祝日で、明治天皇の遺徳を仰ぎ、明治という時代を追憶する趣旨で、昭和二年に制定されました。

戦後、廃止されましたが、十一月三日という日取りは現在も「文化の日」として引き継がれています。

明治天皇(一八五二〜一九一ニ)は、第一二二代天皇で、名は睦仁(むつひと)。

孝明天皇の第二皇子で、母は中山慶子(よしこ)様。慶応三年に即位し、同四年三月、五箇条御誓文を発して新しい施政の大方針を明示し、開国進取・富国強兵の国是を定めました。

東京遷都、版篇奉還、廃藩置県を断行し、封建制度を廃し中央集権体制の確立に努め、明治十八年末に内閣制度を制定し、欧米諸国の制度・文物を移植して、政治・外交・軍事・産業・教育などの改革を遂行しました。

明治二十二年大日本帝国憲法・皇室典範を制定し、近代国家としての体裁を整えたとされています。在位四十六年(一八六七〜一九一二)。

大正天皇祭。12月25日。

戦前において先帝である大正天皇の崩御日を祀る祭日でした。

大正天皇(一八九七〜一九二六)は、第一二三代天皇、明治天皇の第三皇子で、名は嘉仁(よしひと)、母は柳原愛子(なるこ)様。

明治二十二年に立太子。明治天皇の崩御後を受けて践祚(せんそ)し、元号を大正と改称しました。

病気のため、大正十年より皇太子裕仁親王(昭和天皇)を摂政に任じました。在位十四年(一九一二〜一九二六)。

 
 
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