月の暦。

人間は、大昔から、一年を表すためにいろいろな暦を使ってきました。

その基準として、地球が太陽のまわりを一周する時間を一年とするのが「太陽暦」、月が地球のまわりを一周する時間を一か月とするのが「太陰暦」です。

古代の日本には暦がなく、自然暦と言って、桜等の植物、山の雪の解け具合等を、季節の移り変わり、農作業の節目としていました。

当時は今のように春夏秋冬、季節の概念も無く、春と秋の二つの区分があっただけでした。

また、すべての生き物が生まれ出る春が年の始めと考えられていて、立春が一年の最初の日とされていました。

その後、月の満ち欠けによって満月から満月までを一か月、満月を月の初めと考える太陰暦を使うようになりました。

そこへ、新月から新月を一か月とする新しい暦が中国から入ってきて、大和朝廷によって公の暦となりました。

新しい暦では一日を「朔(ついたち)」と書き、十五日、満月を「望(もち)」と書きます。

一日は新月のため太陽に隠れて見えませんが、朔旦正月が正式な一年の初めとなりました。

しかし、一般庶民のあいだでは古い暦がいつまでも生きていて、十五日も望の正月として祝われてきたのです。

太陰暦は月の運行、つきの道かけによる周期的変化を基準として定めた暦で、「太陰」とは月の事です。

一か年を十二ヶ月と定め、一か月を二十九日と三十日、交互に配置した暦で、実際の一年(太陽年)より約十一日短くなります。

太陰暦の日付は、照明の発達していない時代には「夜の明るさ(月明かり)」を知るのに便利であり、また潮の満干の大小の周期を知る目安にもなりましたが、純粋な太陰暦は、朔望月(一朔望月は29.53日)をもとにして日を数えるので、農耕生活に重要な季節を知るのにはとても不便でした。

そこで、月の満ち欠けによって日を数え、太陽の動きで季節を調整していく「太陰太陽暦」が生まれました。

太陰太陽暦ではそのずれを修正するために、大の月(三十日)、小の月(二十日)を組み合わせ、十九年間に七回の閏月を設けて閏月のある年は一年を十三ヶ月としました。

しかしそれでも、実際の季節と暦の日取りは年により驚くほど大きくずれてしまいました。

 

太陽の暦。

太陰太陽暦は月の運行をもとにした太陰暦に、季節変化(二十四節気)など、太陽暦の要素を取り入れてつくられた暦です。

中国黄河中・下流域において、殿の時代には用いられており、日本では飛鳥時代に採用されました。

太陽暦は、地球が太陽の周囲を一回りする時間を一年と定めた暦で「陽暦」あるいは「新暦」とも言います。

太陽の黄道上の運行、季節の交代する周期をもとにつくられた暦法で、一太陽年(一回帰年)の長さに基づき暦年を設定したものです。

地球上の季節現象は、地球がその自転軸を公転面に傾けて公転しているため、太陽の地球への照らし万が一年を通じて規則正しく変化することによって生じます。

そのため季節の変化や、気候の変化、農作業等を判断するのには、太陽暦が最も合理的で便利です。

しかし、月の周期と一致しない欠点を持ち、日にちによって潮の満ち引きを知る事は出来ません。

太陽暦は一ヶ年を三六五日、1年を12等分して大の月、小の月を設け、2月だけは28日とします。

そして、四年ごとに閏年を置いて三六六日とし、百年目ごとの年はその西暦年数が四百で割り切れる時だけを閏年とします。

四百年で九七回の閏年があります。

現在、世界の共通暦として用いられている前記のグレゴリオ暦や、その前に用いられていたユリウス暦はこの一種で、日本では、明治五(一八七二)年に政府より「改暦の詔書」が出され、太陽暦(グレゴリオ暦)を使うことに、同年十二月三日を一八七三年一月一日としました。

以後、改暦前の太陰太陽暦を旧暦、改暦後の太陽暦を新暦、と呼ぶようになりました。

なお新暦という用語は、明治五年十一月九日の太政官布告三三七号の「改暦の布告」のなかで用いられているそうです。

 
Google
Web pleasuremind.jp