冬至。

冬至は、毎年十二月二十三、二十四日頃。

二十四節気の第二十二番目で、この日から小寒までの期間を言います。

この日は、太陽の位置が黄経二百七十度にあり、北半球では太陽の南中高度が最も低く、一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日です。

中国、及び世界各地で、冬至の頃を暦の起点としました。

西欧では冬至を太陽の誕生日とする思想があり、クリスマスは冬至の日を陽気回復の日として祝った風習が、天文学の知識の不足によって日がずれたものであるとされます。

日本では、暦が一般化しない頃には、霜月(陰暦十一月)下弦の月の日をそれに当てていました。

冬至の夜、弘法太師が村々を巡り歩くとされていますが、それは霜月二十三・四日の太子講と、来る年の豊作豊穣を願う神祭が結びついたものと考えられています。

これは大子(おおいこ)と呼ばれる神の子が、新たな生命力を付与するために、この日、村里に巡って来て、これによってはるが立ち返るという信仰であったとされています。

この大子に、弘法太子や聖徳太子の名が使われて語られるようになってしまったと考えられてします。

ただ、このお祭りは一般には冬至の行事と無関係と思われるようになり、代わりに冬至粥・冬至南瓜・冬至蒟蒻等、特定の食物を食べるようになりました。

冬至の日には「冬至唐茄子」と言って、唐茄子や南瓜、柚子、蒟蒻、ケンチン汁を食べる風があります。

また柚子は百八に切って柚子湯をたてて入ると、中風ににならないとか、風邪を引かないとかのいいつたえがあります。

日本ではこの日、粥を作り、こんにゃくやかぽちゃを食べたり、冷酒を飲んだりするなど、特定の食べ物を食する風習が残されています。

この日に柚子湯に入り、冬至粥(小豆粥)や南瓜を食べると風邪をひかないと言われています。

中国北方では餃子を、南方では湯圓(餡の入った団子をゆでたもの)を食べる習慣があるそうです。

またこの日、「ン」のつく食品(蓮根・蜜柑など)を七種食すると幸運になるとも言いました。

これは生命力の減ずる時期に供えた薬喰の意味もありましたが、主な意味は、珍しくなった野菜類を冬の祭りに供える事にあったそうです。

冬至は中国の天体思想では太陽の運行の出発点であり、暦の起点としていました。

春分や秋分の観測は容易ではありませんが、夏至や冬至は太陽の投影をはかる事でわかるもので、古代中国人もまずこの日を突き止めようとしました。

春秋以前の中国王朝では冬至の頃に朔日(新月)が来るのを正月としていたのです。

その後、暦の知識の発達により、必ずしも冬至の日を正月とし無くてもよくなり、年始として春の初めが合理的である事から、春秋時代中期以降は、立春が月の初めに来る月を正月に選ぶ方法が用いられるようになりました。

しかし中国では、中国では、皇帝すなわち天子は、天命として天の動きを司る能力を持つ者とされたため、暦づくりは天子が天子たることを人民に、そして周辺の隣国に示す必要がありました。

例年、中国の周辺国家は冬至使と称する一行に貢物を持たせて、天子のところへ出向かせ、天子の謁見がかなうと責物の返礼としてそれにまさる下賜物と冊を受け取ったのです。

これを冊封と言ったそうです。

歴代の皇帝にとって暦の起点である冬至に天を祭ることは最も重要厳粛な儀式でした。

これを郊天の儀と称し、民間でも冬至節として祝っていました。

唐代の風俗では、この日赤小豆の粥を炊いて疫鬼を祓い、その物忌みが終わる翌日を最も華やかな祝日として祝いました。

慈覚大師(円仁)の伝える所では、「冬至前夜は日本の庚申の夜のように慎んで誰も眠らずに起きているが、当日になると我が国の元日の日と同様で宮中では拝賀が行われ、一般人の間でも互いに祝意を交わし、目上に賀をのべ、道俗の間では百味を集めて賀辞を述べあった」そうです。

冬至の日には、日本でも伊勢暦や大経師暦等の暦を売っていましたが、明治五年の改暦以後、日付をあらわず正式なものではなくなり、「暦」として、配られたり売られたりしています。

 
 
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