羽子板市。

羽子板は、毬杖(ぎじょう)のへんかしたものと言われ、古くは左義長を焼く様が描かれたものが多かったそうです。

室町時代には「羽子」を「こぎの子」、「羽子板」を「こぎ板」と称し、「胡鬼板」等と字を当てていました。

「看聞御記」永享四年(1432)正月五日の条には、女中と公卿が組に別れて「こぎの子勝負」をして男方が勝ったという記事があるそうです。

同六年正月五日の条にはこぎ板二、こぎの子五つを進物として公卿方に贈ったとあり、そのこぎ板は、「蒔絵置物絵等風流」の物であった旨の注釈があります。

「こぎ板」は「羽子木板」の転だと言われ、延宝年間(1673〜1681年)の「日次紀事」には、羽子木板・羽古義板等と字を当てています。

「下学集(かがくしゅう・室町中期、文安元年(1444)成立の国語辞書で全二巻。天地・時節・神祇(しんぎ)・言辞など十八部門に分類し、用字・意味・語源を簡単に記したもの著者未詳。)」に、羽子板にコギイタ・ハゴイタと両様の訓を記してある事から、室町時代からハゴイタと言った事が知られています。

羽根ももとは豆に羽をつけたもので、厄払いとして豆を打つ意がありましたが、のちに無患子(むくろじ)の種を用いるようになったそうです。

羽子板市は、江戸時代元禄の「江戸惣鹿の子」には「十二月二十六日より三十日まで、破魔矢・羽子板売るなり。中橋・尾張町一丁目・十間棚・神明前・糀町四丁目・浅草かや町」とあり、雛市・のぼり市と同じ場所で売っていたようです。

当時は期日も暮れの押し迫った短期間で、羽子板売と言って、市ではありませんでした。

現在は、十五日の深川不動の市がはじめで、十七・十八日は浅草、ついで神田明神・芝愛宕・湯島天神・薬研堀の市と続き、最後はベタ市と言ってあちこちの通りに出現し、問屋ではなく製造家から出る事が多いそうです。

浅草の市が景気のバロメーターとされ、最も力を入れます。

京都では四条・新京極等が名高いのですが、各地ともデパート等の羽子板市に華やかさを奪われているそうです。