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十一月の行事ー神様と縁結びのお話。
 
  鷲の育て子。
    日本霊異記上巻第九「嬰児(みどりご)鷲に擒(と)られて他国(ひとくに)に父に逢うこと得る縁(ことのえにし)」は、一般に「鷲の育て児」「鷲の捨て子」と呼ばれる説話の、もっとも早い記録です。

  皇極天皇二年(六四三)三月頃、但馬国七美(しずみ)郡の山里の家に女の嬰児がいました。 その子が庭にいた時、鷲が舞い降り掴むと、そのまま東の方へと飛び去ったのです。 両親は泣き悲しんでその子を探し求めましたが、その子の行方はとうとうわかりませんでした。
  八年後の白雉元年(六五〇)八月、父は用事があって丹後国加佐(かさ)郡に出かけ、ある人の家に泊まりました。 そこには娘と同じ年頃の子がいて、その子が井戸に水を汲みに出かけた時、自分も足を洗おうと一緒に出かけて行きました。 そこでその娘は村の娘と争いになり、「鷲の食い残し。」と言われて、泣きながら家に帰りました。
  父はなぜその子が「鷲の食い残し。」と言われるのか?とその家の主人に尋ねた所、主人は、鷲が子供を捕まえたまま、西の方から飛んできて、巣の中に落とした所を救い、そのまま育てているとこたえました。
  父は自分の子がさらわれた年を考えると、この子が自分の子だと主人に申し出ました。 主人は、その申し出にこたえ、父に娘を返しました。

 「鷲の育て子。」の説話は、
   1 幼児・赤ん坊が鷲にさらわれる。
   2 鷲は高い木の巣の中に幼児を置く。
   3 その子供は拾われて、立派な人物、高僧等に成長する。
   4 両親、母親が子供を探し求めて流浪する。
   5 水辺を縁に成長した子と親が再会する。
 という、要素を持っています。

  このタイプの説話・昔話は世界的に分布しており、特にギリシア神話で、鷲に変身したゼウスが、山で遊んでいたガニメデュウスをさらう、という話が有名です。

  もともとこのお話は異常児誕生の物語と考えられていて、水辺にすむ母神から、鷲を巫女のもとに通う神の使いが、子供をさらって異常出生の形を取り、その子供を特殊な状況で成長させることで神の子の誕生を語っている、そうです。
  また、水辺の神として、川や泉、井戸などの水の側で別れた両親と再会する等、元のお話のモチーフを残しているそうです。
  
  「鷲の育て子。」
      
  近江の国に二つになる男の子と、渚と言う若い母親がいました。 主人に早くに死に別れたため、毎日子供をおぶって、近所の畑の手伝いなどをして、細々と生活していました。
  ある日、母親はいつものように子供を背負い、桑畑にやって来ました。 そして桑の切り株に子供を寝かし、自分と同じ小さな如意輪観音菩薩像の子供のお守りに、「観音様、仕事をしてきますけぇ、この子をお願いします。」と言うと、母親はそのまま桑の葉を摘みに行きました。
  すると空から鷹が舞い降り、子供をつかむと、そのまま空へ飛び上がったのです。 母親は驚き、子供を追いました。 しかし鷹は見る間に山を越え、空の彼方へ消えていきました。

  母親は狂ったように鷹を追いました。 鷹にどこか落とされていないか? 木の上の巣に運ばれていまいか? 母親はあちこち聞き歩き、東の国から西の国、方々を尋ねて回りました。 お金が無くなると、農家の手伝いや宿屋の手伝いをして働きました。
  一年がたち、二年がたち、三年がたち、十年がたちました。
   そして三十年の月日がたっていたのです。

  母親は年老いて乞食のような身なりになっていました。 若い時のように働く事もままなりませんでした。 歩き疲れ、じっと道の端に座っている事もありました。 もう、どこも探すあてがありませんでした。
  あの時、山の中に落とされて、人知れず死んでしまったのかも知れない。 悪い考えばかりが頭にうかび、自然と涙がこぼれてきました。

  このまま子供を探し続けようか? それとも故郷に帰ろうか?
  母親は迷いました。
  目ノ前を旅の占い師が歩いて行きました。
  「待ってください!」
  母親はいきさつを話すと、自分はどうしたら良いのか教えて欲しいと頼みました。 占い師は、話を聞くと、筮竹を出し、あれやこれや一心に占いはじめました。
  そして母親の顔をじっと見つめて、
  「この先の川に渡し舟がある。 そこへ行きなさい。」
  そう言うと、占い師は黙って立ち去りました。

  渡し場に何があるのじゃろう? 母親は渡し場に行きました。 そこには故郷へ帰る船がありました。
  ああ、これはもう帰れと言う事だったのじゃろうか?
  あの占い師はもうあの子がこの世にいないと、言う事が出来ずに、私にここへ行けと言ったのじゃろうか?
  母親は目の前が真っ暗になりました。

  目の前に船が着きました。 その船から、立派な袈裟を着たお坊さんと小僧さんが数人、降りてきました。
  母親は懐からずっと肌身離さず持っていた、小さな如意輪観音像をとり出し、どうかあの子を迷わず浄土に連れていってやってください、そう観音像に祈ったのです。

  目を開けると一人のお坊さんが目の前にたっていました。
  「お坊様・・・。」
  母親はけげんな顔をしました。
  そのお坊様は手の中の観音像を見つめると、急いで自分の懐から、小さなお守り袋を出し、同じ観音像を出したのです。
  それは、鷹に連れ去られた我が子に持たせた、対の如意輪観音像でした。
  「お前様は・・・私の子かえ?」
  母親はお坊様に聞きました。
  お坊様は目にいっぱい涙を浮かべると、母親の手を取り、そこに座り込んでしまいました。

  鷹にさらわれた子は、あるお寺の杉の木の上まで運ばれ、そのまま置き去りにされていたそうです。
  そしてそこのお坊様に助けられ、仏法を習い修業し、今は立派な僧となり、あちこちを歩いて仏法を説いていました。

  いつか自分の親に会えるかも知れない、そう思って、旅を続けていたのでした。

  僧は母を寺へと連れ帰り、今まで孝行出来なかった分を取り返すように、また母も、今まで子供に何もしてやれなかった分を埋めるように、仲良く暮らしたそうです。

           「鷲の育て子。」
   
     このお話は良弁(ろうべん)僧正の説話です。
  良弁僧正は、相州大山(おおやま)を開いたとされ、この説話は大山縁起として江戸期の大山信仰とともに流布、「東海道名所図会」などで、ひろまったとされています。
  そして「二月堂良弁杉由来」として明治期に劇化され、のちに歌舞伎にもなりました。

  良弁僧正は奈良時代の華厳・法相の僧で持統三年(六八九)から宝亀四年(七七三)まで日本仏教に大きな足跡を残した人物です。 百済系渡来人の後裔とされ、近江または相模の出身とされています。

  神亀三年(七二八)、聖武天皇の皇太子基親王の冥福を祈る金鐘山房の智行僧の一人となり、
  金鐘寺が大和国国分寺、盧舎那大仏造営の地となる機縁をつくりました。
  天平五年(七三三)、聖武天皇より羂索院(のちの東大寺)を賜りました。
  天平十七年(七四五)、「金光明最勝王経」の講説を行って仏教界を先導し、
  盧舎那大仏造営では、行基等とともに聖武天皇を助け、
  天平勝宝四年(七五二)四月、大仏開眼ののち、五月一日に初代東大寺別当を任じられました。
  天平勝宝六年(七五四)二月、唐僧鑑真一行を迎え、
  聖武天皇の死去の際、仏教界の領袖として大僧都になりました。
  天平宝字四年(七六○)七月、慈訓、法進らと僧階の改正を上奏、教学の振興をはかり、
  天平宝字七年(七六三)九月、僧正の極官に補せられました。
  晩年は石山寺の造営にも関係し、
  宝亀四年(七七三)閏十一月十六日、入滅しました。
  「続日本紀」によると、宝亀四年十一月二十四日に卒す、と記されています。
  良弁僧正の話は「東大寺要録」巻一に「耆老相伝云」として伝えられ、
  「宝物集」(九冊本)第六冊、「沙石集」巻五末などにも記されています。
  説話としては、「元亨釈書」のものがほぼ完成された形となっています。
  良弁僧正をさらった鷲は金色であった、とされ、そのため良弁僧正は、
  金鷲童子「大山縁起」、金鷲仙人「宝物集」、金熟優娑塞(こんしゅうばそく)「扶桑略記」、
  金鷲優娑塞「日本霊異記中二十一」、金鐘行者「古事談第三」などの異称で呼ばれました。
  良弁僧正は大仏建立時、黄金が不足した時、その産出に尽力したとされ、
  そのため鍛冶師、鉱山師の信仰が背景にあると考えられています。
  鍛冶師と鳥の結びつきは神話・説話・伝承世界で広く認められているため、
  良弁僧正をさらった鷲は、彼らの神であったのでは?とも指摘されています。


  「鷲の育て子」、「鷲の捨て子」タイプの他の説話は、「神道集」巻六、中世小説「みしま」の、

  伊予の国の長者、橘清政夫妻には子がなく、長谷観音に誓願して、自らの財と引き換えに一人の子を授かりました。 夫妻は貧しくなりましたが、授かった子を喜んで育てました。 しかし、その子は鷲が連れ去り、その子は養い親に育てられ立身出世し、四国に任地を得て、山中に隠れ住んでいた両親を見つけ出し孝養を尽くします。 後に両親は三島大明神、子は伊予一宮の神となりました。
  というお話。

  随筆「翁草」巻九、「閑田次筆」紹介の摂津国高槻の鷲巣(津)見氏の氏名由来譚、
  高槻の城主が鷹にさらわれた子を拾い、養い育て、その子が一つの家系の祖となったというお話。
    
  また「閑田次筆」には、和泉国、堺の旭蓮社という禅寺の開祖、玄恕上人が、幼児の時、鷲にさらわれた人である事、加賀の武士が大鳥にさらわれ、箱根の山中まで連れ去られた事を紹介。

  「甲子夜話」続編巻九十二には、天保年間、少年が鷲にさらわれ、薩摩から木曽山中へ、近江の膳所(ぜぜ)から若狭の海辺まで運ばれたと紹介しているそうです。

  昔話では、良弁僧正はりょうびん和尚などと呼ばれて伝えてあり、さらわれた子供が殿さまになる等のお話があります。

  ◆補記
  ◇余談ですが、外国では自分の奥さん以外に産ませた子供を「鷲」にさらわれて自分の元にやって来た子として育てた、そうです。 神話が体のいい言い訳に使われたわけですね(笑)。
◇今昔物語集巻二十六の一に同話、扶桑略記巻四、水鏡中巻にも同話。 沙石集巻五末。良弁上人の話。

◇「二月堂良弁杉由来」(明治二十年、一八八七年二月、彦六座。)
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~freddy/watching65.htm
 http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/kamigata/kamigata050515.html
 http://www.jmdb.ne.jp/1922/ax002340.htm
◇絵師金蔵「二月堂良弁杉由来」
 http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/040828.htm
◇良弁僧正座像。
 http://www.e-suzaku.net/ichioshi/2004_dec/robenki.html
 手持ちの木造如意は奈良時代制作のもので、良弁生前所持のものと伝えられています。
◇没年月日
 「続日本紀」によると、宝亀四年十一月二十四日に卒す、と記されています。
◇如意輪観音。
 石山寺は聖徳太子の念持仏如意輪観音をまつった事が始まりとされています。 現在秘仏とされている如意輪観音像は三メートル近くあり、その体内に奈良時代の金銅仏四体、水晶塔が納められているそうです。
◇松林寺対面観音。
 http://www.city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d34120e0e183bb/7d34120e0e183bb13.htm
 
     
  わしにさらわれた子ども 絵本