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お盆と閻魔様のお話。
  日本の閻魔伝説
    古来、日本には地獄の概念はありませんでした。
死んだら行く所としての夜見(よみ、黄泉)の国はありましたが、 霊は祖先の霊、または祖霊と言う祖先の霊の集合体と、屍にまつわる悪霊があり、 祖霊は尊っとばれ、悪霊は巨石の下に封じ込まれました。
  人々は祖霊の守護を受け、悪霊の祟りを避けるため、 常に身を清浄にするため、禊(みそぎ)と祓いをしました。 魂は禊をすると生まれ変わり、再生されるものと考えられていました。 結婚していようが、子供を産んでいようが、田植えをする女性は、 早乙女、という処女(おとめ)だったのです。

  本来の処女は魂の状態をさしているものなのです。

  死んだ後の魂はどうなるのか?
  仏教の伝来この事に対する大きな概念の変化だったようです。
  生きている時に行った行為はいかに禊をしようが、 たとえ海の水をすべて使ったとしても洗い落とす事が出来ないもので、 この世に生を受けたものは、すべて生前の行い、因果に応報して、 「人間」「天」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」の六道を輪廻転生すると、されていたのです。
  死後の概念がかけ離れていたため、古代日本での仏教受容は、  まず優れた学問や芸術をもたらすものとして受け入れられ、 そしてしばらく後、悔過(けか)という作法により、 次第に宗教として受け入れられて行きました。

  禊や祓いによって身を清めるのと同様に、 観音・阿弥陀・薬師等の諸仏の名号を唱え、悔過する事によって 自分に積もった罪障を一掃し、 国家安泰・五穀豊穰を祈り、自らも悪霊の祟りから逃れようとしたのです。

  この悔過信仰は天平時代に始まり、九世紀末までは盛んだったようです。 この頃から地獄を描写した六道絵、「地獄御屏風」「地獄絵御屏風」が つくられています。

  地獄の概念は仏教にとって良くない働きをしたようです。 人々にとって仏教の死後の世界観は恐怖そのものだったのです。
  文献上、地獄の概念・因果応報の概念が現れたのは 日本初の仏教説話集「日本霊異記」です。 日本霊異記は薬師寺の僧、景戒によって、 弘仁年間(810~814正確な年代は不明)に書かれたもので、 悪い行いをしたものは悪い報いを受けるという因果応報の物語が 数多く記されています。
  時代をもう少しくだる沙石集(1238鎌倉時代)にも因果応報譚が記されています。
  前業の酬いたる事
    信州の山寺の縁の下で母犬が五匹の犬の子を生みました。
しかし、母犬はそのうちの一匹だけには乳を飲ませようとしませんでした。 その子犬は痩せ細り、わびしそうにするばかりでした。 寺の者はその母犬を憎み、棒で殴りました。
  その夜の事でした。 眠っている住職の夢の中に現れた母犬は僧に語りかけました。
「私は昔遊女をしておりました。 この子犬達はその頃、交流のあった五人の男達です。 そのうちの四人とは、気持ちも通いあい、わたしは情をもっていましたが、 一人だけ、私につきまとい苦しめるような事ばかりしたものがおりました。」
「今の四人の子達は、乳を飲ませてもいとおしく、 なんの煩わしさもありませんが、 一人の子だけは、まだ私につきまとうのかと 乳を飲ませるのも情けなく、憎さのみつのります。 あなた達がそれを見て殴ろうとも、私にはどうしようもありません。」
「今日、この男の甥が来てこの子を連れていきます。 どうかそのまま連れて行ってもらってください。」
  僧は目を覚ましました。 他の僧侶も、小僧さんも同じ夢を見ていました。  聞いて見ると自分の見た夢と同じものでした。
  不思議な事があるものだと話していると、 ある男が子犬が欲しいと寺を訪ねてきて来ました。
  住職達が子犬の所に連れていくと、その男は痩せている子犬を抱きかかえました。 男は痩せたその子犬がなぜか可愛くて仕方ないようでした。 住職はその男に、 亡くなった叔父さんとその叔父さんが通っていた遊女がたのかと尋ねました。 するとその男は亡くなった叔父がいて、自分を大変可愛がっていた事、 その叔父には通っていた遊女があったと言いました。
「その遊女には、叔父の他にも四人通ってくるものがありました。 叔父はそれに腹を立て、恨んでいましたがそれでも通っていたようでした。」 そう言って子犬を連れて帰っていきました。
  憎いも可愛いも、前世からのことわりなのか。 住職達はそれ以後、母犬を憎む事をやめ、ただ悪い因縁を重ねぬよう慎みました。
              沙石集 巻七 「前業ノ酬タル事」
   
    同じ頃、天台浄土宗では、 阿弥陀浄土の荘厳な様子を賛美する事と、 六道の惨苦を説き、また六観音による六道救済を説きました。

  観音菩薩は三十三の変化をし、さまざまな姿をとります。

  その基本である聖観音と変化観音を六道の救済にあて、 聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、不空羂索観音(准胝観音) 如意輪観音の六観音が形成されていきました。

  中でも十一面観音は六観音を代表する観音菩薩とされ、空也上人(903~972)の建立した六波羅蜜寺の本尊に選ばれたのも十一面観音でした。
空也上人の踊り念仏は悪霊を振り払う所作を持っていたとされ、 上人は観音を介して阿弥陀念仏を唱える事を勧めていきました。 当時、六波羅蜜寺の建立された鳥辺野や鴨川等にはうち捨てられた遺体が散乱していました。 観音菩薩はその死者の亡霊を鎮圧する役目と、鎮魂の役目を持っていたようです。
  永観三年(985)天台宗の僧、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん 942~1017)は「往生要集」を表します。
  往生要集は第一章「厭離穢土(おんりえど)」で、 救済手段のまったくない六道の惨苦を詳細に説明し、 第二章「欣求浄土(ごんぐじょうど)」で、 阿弥陀如来の西方極楽浄土の荘厳なさまを説き、 早く六道の穢土を捨て、永遠の安楽を保証する阿弥陀浄土に往生する事を勧め、 最後の「臨終行儀」へと続きます。
  往生要集は日本人の地獄観を決定づけた、とも言われるほど、 地獄の有り様が詳しく書かれています。
  地獄は、等活地獄(とうかつじごく)、黒縄地獄(こくじょうじごく)、 衆合地獄(しゅうごうじごく)、叫喚地獄(きょうかんじごく)、 大叫喚地獄、焦熱地獄(しょうねつじごく)、大焦熱地獄、 阿鼻地獄(あびじごく、無間地獄とも)の八大地獄があり、 それぞれの地獄に東西南北四つの門があり、 門の外にはまたそれぞれに四つの小地獄を持っているとされています。
  源信の書く地獄は、日本古来の浄化も再生も否定された懲罰的なものとされ、 肉体的・物理的な苦痛でしか、自らの罪はあがなえないとも受け取れるものです。 焼かれ、骨を砕かれ、鬼に食われても、肉体は苦痛を受けるためだけに再生し続けるのです。
  この源信の六道観は天台浄土教の信者にはついて行けないものだったようです。
  地獄から救済するものは、以降大きな変貌を果たします。 六観音は六地蔵へと代わり、地獄の審判を描いた十界図には阿弥陀仏や地蔵菩薩が 描かれるようになっていくのです。 そして、死に際して地蔵菩薩、阿弥陀如来が迎えに来る、 地蔵来迎図、阿弥陀来迎図等が制作されるようになりました。
  観音菩薩のお寺として創建された六波羅蜜寺も、 十一世紀以降は地蔵菩薩の霊験説話をもつ地蔵信仰の寺となり、 各地には霊験説話をもつ寺社がたくさん現れるのです。

  「広貴、妻の訴えにより炎魔宮へ召さるる事」
    昔、藤原広貴という男がいました。
病にかかり、大和の国真木原の山寺に入って斎戒をしていました。 広貴は筆をとり、経を書き習おうと机につきましたが、 夕方になって侍者が見ると、眠るように動きません。 侍者は驚いて広貴を揺り動かしましたがすでに事切れていました。
  広貴の死はすぐに親族に伝えられました。 親族は慌てて葬儀の支度をして真木原に向かいましたが、 その時には広貴は息を吹き返していたのでした。
  親族のものが聞くと広貴は布団に体を起こし、話しはじめました。
「私は机にふして眠っていたようなんだが、 目を覚ますと髭を生やし、赤い服の上に銅鎧をつけ、 矛を持った者たちに取り囲まれていたのだ。」
  広貴は続けました。
「私はその者たちに捕らえられ、大きな宮殿の中に連れて行かれたのだ。 そこには四方に玉簾が架けてある楼閣があり、 中には輝き光を放つ方がおられたが顔は見えなかった。  銅鎧の者が『召しいて来ました。』と言うと、 その方が『汝の後におる者を知っておるか?』と問うて来られた。 見ると身ごもったまま亡くなった妻が立っておった。
私は『我が妻です。』と答えた。
すると御簾の中のお方は、 『この女の訴えによりお前をここに召し連れてきた。 この女の受くべき苦しみは六年、そのうち三年はすでに終えておる。 女はお前の子を孕み、そのために命を落としたのだから  残りの苦しみを共に受けたいと申しておる。』 とおっしゃられた。 私はここは地獄という所で、妻が苦しみを受けていると悟った。
『妻の訴えはもっともな事です。 私は今まで、妻の後世を弔う事も無く日々を過ごしてきました。 妻とともに同じ苦しみを受けるのはいといませぬが、 妻のためには仏典を書き写し供養して、妻の受ける苦しみを救いとうございます。』 と願ったのだ。
すると御簾の中の方は妻にどうするか?と尋ねられた。
妻は、 『本当にそうしてくださるなら、夫を許してください。』 と頭を下げてくれた。
御簾の方はそれを聞くと、 『さればこの度は帰り、妻のために仏典を書供養して弔へ。』と、 私を解き放ってくださったのだ。」
  廻りの者は広貴の言う事が不思議でにわかには信じられませんでした。
  広貴はそのまま続けました。
「私はそのまま門の方へ向かったが、私をここに連れてきた方はいったいどんな方だろうか?と その場に帰り、御簾の中のお方に、 『このような御恩を受けながら、お名前すら知らないままではすみません。 恐れながらお名前をお聞かせください。』と、尋ねたのだ。すると御簾の中のお方は、 『我は閻魔王である。 閻浮提(えんぶだい)においては地蔵菩薩という。』と答えられ、 くま手ほどもある大きな右の手を差し伸べると私の額をなでたのだ。 『それは私の印だ。 その印があれば災いを被る事は無いであろう。 すぐ帰りなさい。』 と私をお還しになったのだ。」
  そう言って広貴は額を見せました。 そこには指のようなアザが出来ていました。
  広貴は妻の冥福を祈りながら仏典を書き写し供養しました。
  しばらく後、広貴は妻が菩薩に連れられ雲に乗ってどこかに行く夢を見ました。
  その後も広貴は妻への供養を続けたと言う事です。
   
  広貴、依妻訴、炎魔宮へ召事。 巻六ノ一 宇治拾遺物語(1221 鎌倉時代)より。
   
    六道からの救済は仏教界にもおおきな問題となったようです。
   法然上人(1133~1212)の浄土宗では職業や身分により どうしても罪を犯さなければならない人々を、 いかに六道から救済するか、考えなければならなかったのです。 それは法然上人、親鸞上人により、阿弥陀如来による絶対他力による救済へと昇華され、 地獄の審判を越えて、誰をも救う事が出来るのだとされていきます。

  そして、江戸時代にはいると、閻魔王の審判、地獄のイメージはぬぐい去られ、 誰をも救済する阿弥陀信仰となっていったのです。

  日本仏教の発達はいかに地獄、地獄の苦しみから逃れるか?という イビツなものであった、とも言えます。 こうして仏教上は因果応報の地獄の概念を越えたかに思われたのですが、 江戸時代以降も死と地獄への恐怖・死者の霊への恐れは形を変え、生まれ続けているのです。 近世になると村々に閻魔堂ができ、 閻魔像と葬頭河婆(そうずずかばー脱衣婆、三途の婆とも)、鬼、 浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)業秤(ごうのはかり)などの像が置かれ、 葬送の際、死者の衣服を供えて滅罪を願う習俗が一般化しました。 この信仰がすたれた所では閻魔像はホコリをかぶっているところがありますが、 信仰の生きているところでは、正月とお盆月十六日閻魔様の縁日に、 閻魔堂に地獄変相図が架けられお参り等が行われます。

  地獄のイメージも時とともに変化しています。
江戸時代のものと思われる伝説などにはかなりの変化が見られます。
  甲州街道沿いに新宿まで来ると大宗寺というお寺があり閻魔様のお堂がありました。 そこはなぜか子守が集まり、おおぜい赤ん坊を背負ったものがいました。 一人の子守が泣きやまない赤ん坊に 「泣いている赤ん坊は閻魔様に食べられちゃいますよ。」と言って、 あやしていた所、いつの間にか背負っていた赤ん坊が消え、 閻魔堂の閻魔様の口に赤ん坊の着ていた着物の付け紐がぶら下がっていたのです。 以来大宗寺の閻魔様は「付け紐閻魔」と呼ばれ、 言う事を聞かない子供は閻魔様に連れてこられたそうです。

  また千住七不思議のひとつに蕎麦食い閻魔様の話があります。
  日光街道沿いの千住宿あたりは食ベ物を扱うお店が建ち並ぶにぎやかな場所でした。 その中にうまいと評判の蕎麦屋があり、毎晩美しい娘が一人で蕎麦を食べに来ていました。当時、 夜半に若い娘が一人で蕎麦を食べに来る事はめずらしい事でした。 店の主人は不審に思い、娘の後をつけました。 娘は裏街道を抜け、金蔵寺というお寺に入ると閻魔堂の中に消えていきました。 その話は評判となり、 金蔵寺の閻魔様に願をかけ、願いがかなうとお蕎麦を供えるというならわしが いつの間にかでき上がりました。

  このように閻魔様のお話は、言う事を聞かない子供やおそば屋さんの宣伝とも受け取れる伝説など、 身近な話に変化していきます。 また、地獄や閻魔様にたいする恐怖心、因果だけを残して変質した地獄観は、 地獄に落ちないよう災いを受けないよう悪い因縁を断つ 新しい救済儀礼や法要を生み出していったようです。
  三途の川のほとりで、善も悪も為さず、その言葉さえ知らず、救いすらわからない、 無明長夜の闇にさ迷う「水子」をすくい取ろうとする思想・信仰も 日本で発生したものです。

  地蔵菩薩や閻魔王の苦悩を伝えるものもあります。 お地蔵様のデータ(地蔵和讃等)
  地蔵菩薩は子供を救うとされていながら、 間引きをされ死して行く赤ん坊の、ただ魂だけを、家の外で待つしかない、 閻魔王は多くのものを裁く故に、みずから日に三度、銅をドロドロに溶かした汁を呑み、 地獄で一番の苦しみに耐えている、そんな話も伝えられています。  

  ヤマ(Yama)、イマ(Iama)と呼ばれた頃と同じように、 自らの国を楽園とするためには、 閻魔王と言えど、果ての無い苦難が待っているようです。
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  ◆補記
  日本霊異記、正式には日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき)。
  薬師寺僧景戒の撰。 弘仁年間(810〜824)に成立。
 中国の冥報記(めいほうき)などの因果応報譚(いんがおうほうたん)にならい、 後世に伝えるために書かれた、とされる。 奈良時代の説話を中心に雄略天皇の治世から年代順に116話を収録。
「広貴、依妻訴、炎魔宮へ召事。」 巻六ノ一 宇治拾遺物語。
 日本霊異記 下巻九 「閻羅王(えむらおう)奇(あや)しき表(しるし)を元(あらわし)し 人を勧(すす)めて善(よきこと)を修(おこな)はしむる縁(ことのもと)。」と 同一のもの。 霊異記での主人公は藤原朝臣広足とされています。
 日本霊異記には三本の閻羅王の話が納められていますが、 地蔵菩薩との関係を示すものはこの一篇のみで地蔵菩薩の登場はこの話だけのようです。 地蔵信仰の元になった説話と位置づけて差し支えないように思います。
閻浮提(えんぶだい)ー人間の住む世界。
 梵語Jambu-davipaを漢字に音写したもの。
もともとは須弥山の南方にある四つの州の一つでインドを思わせるものでしたが、 佛教伝播に従い、中国・日本も含んで、この世界指すようになりました。
閻魔様の縁日(一月十六日、七月十六日)

 この日を"薮入り"と言って、地獄の獄卒もお休みで、地獄の釜の蓋がゆるむ、とされ、 亡者もこの日ばかりは責め苦がないとされ、 奉公人が実家に帰ってもよい日、嫁いだ嫁が実家に帰っていい日ともされています。 どちらが先かわかりませんが、薮入りには奉公人がこぞって遊びに出かけ、 閻魔様の縁日や観劇に出かけたそうです。
六道
 天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つを言う。
 現在の浄土真宗では、
 地獄ー地下にある牢獄の意。 苦しみの極まった世界。
 餓鬼ー常に飢餓に悩まされる世界。
 畜生ー人に養われて生きているものの意。 鳥・獣・虫・魚としての生存状態。
 修羅・阿修羅ー絶えず対立し闘争する者としての生存状態。
 人間
 天 ーすぐれた楽を受ける喜悦の世界。
 という説明がなされ、人の状態、精神状態を指していると考えられています。
三途
 地獄・餓鬼・畜生の三つの境界をいう。 三途の川はその境にあります。
葬頭河婆(そうずずかば・そうずかばば)
 脱衣婆(だつえば)、三途の婆、三途川婆(しょうずかばば)ともいいます。
  亡者から衣服を奪い、その衣服を受け取る役目をするのが、懸衣翁(けんえおう)で、 衣領樹(えりょうじゅ)の上で待ちかまえているそうです。 葬頭河婆の怖い顔で睨まれると咳が止まるとされ、 また針を用いる職業の女性の信仰が篤く、今も続いているそうです。