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三月ー花と少女の物語。
 
彼岸と社日。
  彼岸。
 

 「著さ寒さも彼岸まで」彼岸は、二十四節気の春分と秋分を中心とした前後三日を含む七日間を言います。
 春と秋の年二回あり、それぞれ春彼岸、秋彼岸と言います。春分も秋分も、昼と夜の長さがおなじになる日で、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。この日以後は、季節が夏と冬に向かって進みます。
 七日間のうちでも特に重要なのが、彼岸の入り(三月または九月の十七日ごろ)、中日(同二十日ごろ)明け(同二十三日ごろ)の三日です。
 彼岸には各寺院で彼岸会や施餓鬼供養が行われ、それぞれの家庭では僧侶を呼んで仏壇の前で経を上げてもらったり、先祖の墓参りをします。


 彼岸という語は、二つの語源が考えられています。
 一つは古代インドのサンスクリット語からきた仏教の言葉です。
私たちが生きているこの世を此岸と言うのに対し、死者のいる世界を彼岸と呼びます。また、此岸は人間が煩悩(さまざまな欲望のこと)に迷い苦しんでいる所であり、その煩悩を断ち切って、悟りを得た浬磐の境地を彼岸と言います。
 彼岸の境地に達する修行方法を、ハラミッタ(波羅蜜多)と言います。
 
もう一つは日本の太陽信仰から来た「日願」と言う説です。
 春分・秋分は太陽が真東から出て真西に沈むとともに昼と夜の長さが同じということで、非常に重要な節目でした。「日の願」日願は、お日さま、太陽に対する農民の信仰用語で、「日天願」と呼ぶ地方もあるそうです。
 この日願が「彼岸」となったという学説もあります。

 浄土教では、阿弥陀仏のおられる極楽浄土を西岸とし、太陽が真西に沈むころに極楽浄土を一心に念じ、を慕う気持ちで念仏を唱えれば、阿弥陀極楽往生ができると説いています。
 彼岸にはちょうど太陽が真西に沈むため、彼岸会に落日を拝む風習が定着したのです。この日沈む太陽が示す極楽浄土への道を「白道(びゃくどう)」と言います。

 日本で初めて彼岸会は八百六年(大同一年)に行われた。
このとき崇道天皇のために諸国の国分寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と日本後紀に記述されています。
 その後、江戸時代頃から彼岸に墓参りをすると言った風習が起こったと考えられています。
 地方によって若干の違いはありますが、ぼた餅、おはぎ、団子、海苔巻き、いなり寿司などを仏壇に供えると風習が残っています。


  彼岸の中日。
   春分の日、秋分の日を彼岸の中日と言います。
彼岸の時期が春分と秋分のころに定められたのは、春分の日、秋分の日に、太陽が必ず真西に沈むからです。
 仏教では、極楽浄土の世界が西方にあるとされていました。そのため真西に沈んでいく夕日を拝んで熱心に念仏を唱えれば、かならず極楽に往生できると信じたからなのです。(真西に沈む太陽への道を、白道と言います。)

 日本人は、仏教が伝来する前から日本固有の信仰によって死後の世界を信じ、先祖を祭る年中行事を行ってきました。特に、彼岸には太陽を崇拝する行事を行うところが多かったのです。
 例えば、京都府の丹後、兵庫県の但馬や播磨地方では、春分の日の朝は「日迎え」と言って東の堂に集まり、昼は南の堂に、そして夕方には「日送り」と言って西に集まって拝む、一日中太陽のお供をして巡り歩くならわしがありました。
 これに似たような風習を、「日の伴」と言う地方もあります。

 また、熊本県や鹿児島県でも、「彼岸籠もり」と言って、春秋の彼岸のころに決まって山登りを行い、先祖を祭る風習があります。

 秋田県でも子どもが山に登って「万灯火」という火をたいて先祖を迎えます。
 それは、山というところが、田の神が下界へ降りてきたり帰っていったりする神聖な場所であるのと同時に、先祖の霊が宿っているところでもあったからです。

 こうして、昔から田の神を祭り、死者の霊を祭る習慣のあったところへ、仏教の極楽浄土の思想が民衆にわかりやすい形で浸透してきたため、先祖の墓参りをして供養する彼岸会の行事を大切なものとして行うようになったのです。

  彼岸会。
 

 彼岸会には、人々が寺院に集まって、仏の姿を心に念じながら念仏を唱えます。この念仏は切れ目なしに長く続けなければなりませんでした。
そこで、寺に参った人が代わるがわる鐘を鳴らし続け、朝から晩まで念仏を絶やさないように したので、「撞木置かずの念仏」などと言われます。
 堂の内いっぱいに巡らせた大数珠のたまを、念仏を唱えながら一つずつ繰って回していく百万遍念仏を行うところもあります。

 また、宗派を問わず、ほとんどの寺では彼岸会の行事として施餓鬼供養を営みます。餓鬼とは生前の悪行の報いとして常に飢えている霊魂のことです。施餓鬼供養は餓鬼や供養してくれる子孫のない無縁仏に食物を施して、先祖の霊に福徳を授けようとする法会です。

 彼岸会で歴史が古く最も有名なものは、大阪四天王寺の法会です。
 平安時代に後白河上皇が参詣し、京都の公家がお供をしたので盛んになったと言われています。人々は四天王寺のそばに宿をとり、彼岸のあいだ一心に念仏を唱えたのです。このため、「四天王寺の西門は、極楽浄土の東門に通ず」といつしか言われ始め、その念仏は「西門念仏」とも呼ばれました。
 四天王寺の法会でもう一つ有名なのは、「塔婆流し(経木流し)」、あるいは「水向け」と言われる先祖供養の行事です。
長さ二七センチ、階五・三センチの薄い経木に経木認所で先祖の戒名を書いてもらい、これを塔婆に見立てて仏前に立て、お経を上げて供養してもらったあと、境内の亀井堂に持っていって水に流すのです。
 小さな竹筒に経木をはさんで流れ出る水に当てると、経木はいったん水に沈みます。そしてふたたび浮き上がってくるのを見届けてから、線香をたいて拝むのがしきたりでした。

 塔婆流しはふだんでも行われますが、春秋の彼岸と盆には特に盛んで、全国から参詣者が集まりました。江戸時代には、大坂近辺に住む人が一家総出で四天王寺に参り、帰りには付近の寺や神社に足を延ばしたり、弁当持参で行楽する風景がみられました。


  ぽた餅とおはぎ。
   ぼた餅とおはぎはおなじもので、罰米とうるち米を同量混ぜて炊いた飯をすり鉢に入れてすりこぎで半つきにし、丸めて小豆あんやきなこ、すりごまなどをまぶして作ります。違いはあるようですが、ぼた餅はこしあんで、おはぎは粒あんで作るのだともいい、その逆もあり一定していません。
 これを春に咲く牡丹の花にちなんで、ぽたん餅と言ったのがなまって「ぼた餅」となり、秋には萩の花にちなんで「おはぎ」と呼びました。
 また、ぼたもちは音を出さずに作ることができるため、おもちのように、いつ搗いたのかわかりません。そのため「搗き知らず」→「着き知らず」として、夜は暗くて船がいつ着いたのかわからないことから夏には、夜船。夜船と同じように、「搗き知らず」→「月知らず」として、月を知らない、月が見えないのは北側の窓だ、ということから冬には、北窓と言うそうです。

  社日(しゃにち)。
 

 雑節のひとつで、春分・秋分に最も近い戌の日のことで、春の社日を春社(しゅんしゃ・はるしゃ)、秋の社日を秋社(しゅうしゃ・あきしゃ)と呼びます。
 旧暦では二月と八月の戌の日の前後を社日としていましたが、時代や地方によっても異なりました。現在は三月と九月の十六日前後に行うところが多いようです。
 春の社日に種をまき、秋の社日に稲刈りを行うのがよいとされ、農事の目安となっていました。

 「社」とは、郷土の守護神である産土神のことです。
 農村では、産土神は田の神、地の神でもあるところから、社日に農神の送り迎えをする祭りを行いました。
 最近まで、各地で春の社日を「地神降り」、秋の社日を「地神昇り」と呼んで祭ったり、「地神講」「社日参り」などの行事を行っていました。
 長野県小県郡では、春に村に障りてきて秋に山に帰る田の神を「お社日様」と呼び、春の社日こは餅をついて祝い、秋の社日には稲を1株、ささげる祭りを行った。
 大分県日白地方でも、春秋二回の社日を「サヅの日」と言い、農業神である作神様を送り迎えする行事がありました。
 京都府丹後地方の「社日参り」は、朝のうちに東方にある寺に参り、昼には南方の寺に団り、夕方西方の寺に詣でて日の入りを送るもので、彼岸の行事との共通性がみられるそうです。
 また、春の社日に酒を呑むと耳が良くなるという風習があり、これを治聾酒(じろうしゅ)と言うそうです。