追儺。

追儺は節分の夜に行っている鬼やらいの行事で、元々は大晦日に行われていました。

中国では先秦時代、西暦前三世紀頃にはすでに行われていたらしく、当時は季節の変わる日に行いました。

古代、疫鬼・疫神は、陰陽五行思想にいう陽気と陰気の去来する時節の変わり目に生まれると信じられていたようで、そのため季節の変わり目や節句などに邪気や災難を祓う行事が行われていました。

「呂氏春秋」には天子が儺(だ)を行った事が記してあります。

儺は難と同字で「つつしむ」の意で、ここから駆疫の意となっていて、儺の字が使われる事となったそうです。


「周礼」によれば、宮廷においては方相氏と呼ばれる呪師が熊の皮をかぶり、四つの黄金の目玉のある面を付け黒衣に朱の喪を着し戈と盾を手に持ち、多数の部下を率いて部屋毎に疫鬼を追い出し、また大喪の時には墓の中に入って疫鬼を追い払いました。

後漢の時代には臘日の前日に儺を行い、疫を祓ったそうです(刑礎歳時記によれば当時の臘日は十二月八日)。

北斉の時代(六世紀)には、季冬晦日に行うようになり、随代には季春・季冬の各晦日に行われました。

唐代には歳末の晦日に行うように改められ、我が国にもこの風習が輸入されました。

日本で行われた記録はかなり古く、続日本記文武天皇慶雲三年(706)に初めて行われた様子が見え、以後、宮廷の年中行事として整って行ったと思われます。

追儺は宮中だけではなく一般でも行われており、「西宮記」延喜八年(906)十二月ニ十九日の条に、前年の晦日に行われた追儺が厳重に行われなかったため、今年は京中に風邪が流行したと書かれており、この時代ではすでに所々で追儺を行っていた事がわかっているそうです。


追儺は神社等でも行われ、大晦日から節分にかけて行われています。

追儺は宮中方式にならって鬼を追う形のものと、年男が豆を撒く形のものの二通りがあり、このうち鬼を追う形のものは、神戸市の長田神社鬼追、京都の虜山寺の鬼追祭(正月七日)、愛知県尾張大国魂神社(国府宮)の儺追神事(陰暦正月十三日)、佐賀県竹崎観音鬼祭(陰暦正月五日)等があります。



豆まきの鬼。

日本古来の民間信仰での鬼は、物語等のイメージではなく、むしろ人々の生活を守ってくれる頼りになるもの、鬼神様と呼ばれ親しみを感じさせる存在でした。

東北地方のナマハゲのように、小正月に若者が鬼や異形の恐ろしげなかっこうをして村の家々を回る行事もそのひとつで、異形者、まれびと、まろうど、というのは神の仮の姿だったり、祖先の霊であるというように昔の人は理解していたのです。

そのため、節分に「福は内、鬼も内。」と言って豆まきをする地方もあります。

しかし豆まきは平安時代に中国の唐から取り入れられ、毎年十二月の晦日に行われた「追難式」という行事でした。それは、黄金の四つ日の仮面をつけた方相氏が、鉾と楯を持って悪鬼を退治する行事でした。

その行事が民間に広がると、もともと年神として幸せと繁栄をもたらすものが、次第に災厄や悪霊としての鬼のイメージが重なってしまったのです。


節分の行事はもともと「正月様」を迎える追難の儀式で、本来の正月様=「鬼神様」を追うのは間違いと言う事でしょうか。



 
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