節分。

節分は、古くは「せちぶん」と読み、立春・立夏・立秋・立冬の前日、四季の分かれ目を意味した言葉でしたが、立春の前日だけを呼ぶようになりました。

一般には、立春の前日を特に節分と呼ぶようになっています。

日本では、中国から太陰暦が輸入される以前、昔の自然暦の時代には、現在のような太陽暦はなく、すべての生き物が生まれ出る春が年の始めと考えられていました。

その時代には、立春が一年の最初の日で、その前日の節分は一年の最終日でした。

そのため、節分の行事は基本的に大晦日と同じ性格をもった年迎えの行事で、地方によっては節分を「年取り」「年越し」と呼ぶならわしが今でも残っています。

日本の正月は、最初は立春でしたが、一月望の日(十五夜)から、一月朔(新月)へと変わっていきました。

そして、この三つが混在したため、もとは同じ日にあった正月行事が、大正月、小正月、立春(節分)と分かれて行われるようになったのです。


節分は除夜から正月へ移る年の境目と同じように年の改まる日と考えられており、年取り・年越しともとも呼んでいます。

節分は年越しという事や、春の農耕始めに先立つ折り目という事から物忌みする例もかつてみられたそうです。

節分の行事は、暦の重複や連続が多かった事から、正月行事との混在が多くみられ、西日本では、正月行事である年占、成木責、土竜追等の行事を節分に行う風習がみられるそうです。

また節分に鬼の侵入するのを防ぐため、柊やとべらを窓にさし、悪臭を発するものを火にあぶり、また虫の口焼き等をします。


平安時代には、大寒に入る前日に、土牛・童子の像を造り、夜半に大内の諸門に立てて寒気を送り出し、立春の前日にそれを取り払ったそうです。

節分の鬼打の儀式は、古くは除夜に行われた追儺の儀式の転じたもので、室町時代以降に行なわれる事となったと言われ、鎌倉時代末までは宮中での追儺行事は十二月晦日に行われていたそうです。

江戸時代、浅草の浅草寺では大晦日の追儺の儀式で節分の札と称するものをまき、これを厄除の札として人々は争って拾ったそうです。


中国の古俗に書く季節の終わりに儺と称して悪鬼邪気を払う行事があり、時代によってはその日取りも一定ではありませんでしたが、北斉・唐代では歳末となり、これが、日本へは唐代に取り入れられたものとされています。

豆打ちも明代の風俗を輸入したものと言われていますが、室町時代には民間で広く行われた記録がある事から、日本古来の民間習俗であったとも考えられています。


節分には社寺で節分祭・追儺式を行う所が多く、寺院では修正会の行事として行う例が多く、追儺の儀式は大別して一つは宮中の追儺に習って方相氏が鬼を払う形のものと、豆打ちを行うものです。

各地それぞれに工夫等が加わり一様ではなく、神社で行われるものに、古意を残したものが多くあるそうです。



 
 
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